2021.09.10
吉富 有治

行政の関係者が語る当時の様子②

ところで、太田の都構想について、太田に近く、かつ同構想の青写真を描いた府の関係者から裏話を聞いたことがある。

「本気で都構想が実現できると信じていたのか」という私の質問に対して、「まさか!それは全然なかった」と言われたときは腰を抜かさんばかりに驚いた。

この人物は続けて「正直、実現できるとは思っていなかった。実現には多くのハードルがあり、それぞれの難題が複雑に絡み合っていた。府の内部でも誰もが内心は夢物語だと感じていたほどで、現実はマスコミが騒いでいただけだ」と裏舞台も打ち明けてくれた。

早い話、実現不可能なことにマスコミが騒いでいたわけだ。さらに驚いたことがあった。

私は当初、このアイデアは大阪産業都と同様、関西財界が大阪府に押しつけたものだと思っていた。ところで太田に近い人物は「違う」という。

それどころか「財界からは都構想の実現について一言もなかった。彼らは冷ややかで、むしろ積極的だったのは府議会の一部だった」というのだ。この「府議会の一部」とは、自民党府議団のことだとピンときた。私も心当たりがあるからだ。

ただし、当時の関西財界も都構想に無関心だったわけではない。関西経済同友会は2002年2月、『関西活性化のために大阪府と市の統合を』という提言を行っている。

その中で「府と市の統合による大阪州(グレーター大阪)の設置」「府と市が一体となった集中投資を実施できる余地が生まれる」と訴えていた。府市の統合により、公共工事や都市インフラ整備といった大型開発に期待を寄せていたわけである。企業の利益アップを隠さないところが、実に財界らしい。

さて、「ピンときた」の話に戻りたいが、その話は次回にしよう。(続く)

大阪都構想をめぐるこれまでの経緯

1953年12月大阪府議会で「大阪産業都建設に関する決議」が可決・成立
2000年太田房江知事が大阪都構想を提唱。
2010年3月橋下徹・大阪府知事(当時)が「大阪都構想」を発表。
2011年4月統一地方選挙で大阪維新の会が大阪市会、府議会で躍進し、最大会派に
2011年11月大阪府知事、市長のW選挙が実施される。
橋下は知事職を辞職し、大阪都構想を公約に大阪市長選挙に出馬。現職の平松邦夫市長と激突し、22万票差の約75万票で勝利。大阪府知事選挙には同じ維新の会の松井一郎氏が約200万票で圧勝。
2012年8月国会で大阪都構想の根拠法となる「大都市地域における特別区設置に関する法律」が議員立法として成立。
2012年12月衆院選挙で日本維新の会が初めて国政に挑戦し、53議席を獲得。
2013年2月大阪都構想の制度設計を担う「法定協議会」が設置される。
2014年3月「法定協議会」の正常化、メンバーの差し替えを公約に掲げて橋下市長が出直し市長選を仕掛ける。橋下は約38万票を獲得し当選。投票率は過去最低の23.59%にとどまる。
2014年7月5ヶ月ぶりに法定協が維新の会の議員のみが出席して開催。現在24区ある行政区を新たに5つの特別区に分割する等、大阪都構想の青写真である「協定書」を作成へ
2015年4月統一地方選挙が実施される。大阪府議会と大阪市会で維新は共に第一党の座を守ったが、両議会で過半数には届かず。
2015年5月住民投票を実施。僅差で反対が賛成を上回り、都構想は否決された。

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