2021.10.11
吉富 有治

さて、都構想の続きである。前回の最後に、「この『府議会の一部』とは、自民党府議団のことだとピンときた。私も心当たりがあるからだ」と記した。では、ピンときた心当たりとは何なのか。

▽前回記事▽
連載:大阪の短い政治史を振り返る②「大阪都構想について」

2008年だったと記憶している。橋下徹が府知事の時代である。自民党大阪府議団の控室で某府議と対面していた私は、その府議から次のような言葉を聞いた。

いわく、「いずれ大阪府と大阪市を合併させ、昔から仲が悪くて世間から”府市あわせ”(不幸せ)などと揶揄された状態をなくし、かつてのような強い商都大阪を目指したい」という。

太田房江に都構想を進言した人物がこの某府議かどうかはわからない。ただ、大阪府と大阪市を合併させるアイデアは大阪府、それも府議から出たのは間違いない。

大阪産業都構想も太田の都構想・新都構想も、いずれも出どころは大阪府だ。歴史的に見ても大阪府にとって大阪市は目の上のたんこぶ。府の目の前で大きな顔をされる前に市をひねり潰してしまえという、いわば大阪府の政治的怨念があったのだ。

政令市になる以前の横浜市や名古屋市、京都市、大阪市、神戸市の5大市は府県と対等の権限を持ち、いずれ独立した自治体「特別市」になることを目指していた。権限やカネの成る木(財源)を失うことを警戒していたのが神奈川県や愛知県、大阪府などの府県だった。

もっとも、この問題は1956年に政令市制度ができたことで一応の決着はつく。だが、大阪府だけは大阪市への怨念を持ち続けたようである。その怨念が地下水脈のように延々と府議に受け継がれ、今に至っているのではないか。

その証拠に、大阪都構想を言い出した維新の中心メンバーは元・自民党府議団である。同府議団の間で脈々と流れてきた大阪市廃止を維新が目玉政策に据えてもおかしくはない。

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幹部議員が語った政策のルーツ
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