2021.09.10
吉富 有治

過去10年の大阪の政治史を考えると、どうしても避けられないキーワードがある。

「大阪都構想」(都構想)である。2010年4月の大阪維新の会(維新)の結党以降、このキーワードは時代を超えてよみがえり、今また大阪の政治を考える上で重要な意味を持つようになった。

特に最大の渦中にいる大阪市民は、政令市・大阪市の消滅に賛成か反対かの選択を迫られ、市民の間でも喧々諤々の議論があちこちで沸き起こった。大阪の政治史の中でも、これほど市民の関心を呼び起こした事例は過去になかったのではないか。

大阪都構想のルーツを探る

実は昭和から存在していた

その都構想のルーツである。これを維新のオリジナルと勘違いしている人がいるが、決してそうではない。雛形は古くから存在していた。その源流を辿れば、昭和20年代にまでさかのぼる。

1953年(昭和28年)12月には、大阪府議会で「大阪産業都建設に関する決議」が可決、成立している。

この大阪産業都が都構想のルーツといえるもので、こちらは大阪府と大阪市を廃止して大阪産業都という特別な自治体を置くものである。もっとも、可決・成立したのは大阪府議会だけで、府から独立した特別市を目指していた大阪市は相手にしなかった。

2000年、大阪都構想が提唱される

2000年に入ると、太田房江元大阪府知事が「大阪都構想」を提唱した。

大阪産業都も太田の都構想も、いずれの目的も大阪府と大阪市の財政赤字解消と、二重行政や二重投資の見直し、そして効率的な行政を目指すというものである。

現代の都構想議論がそうであったように、太田時代の都構想も大阪府と大阪市、そしてマスコミを巻き込んで活発な議論が行われた。

特に府と市の対立が、より激しくなった。もっとも、このときは住民投票の話は具体化しなかったので、大阪府民も大阪市民も、どこか他人事であったように思う。

太田の都構想も、当初は府市再編が基本になっていた。そのため大阪市が猛反発したのは言うまでもない。

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行政の関係者が語る当時の様子①
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