連載:大阪の短い政治史を振り返る ①「橋下徹という政治家について」
2008年、大阪府知事に就任
2008年1月27日、橋下は次点の候補者にほぼダブルスコアの大差をつけて当選した。
窓から大阪城が一望できる知事室に入った橋下は知事の椅子に座り、「思ったより質素ですね」「歴史を感じるなあ」「これからは僕が大阪府の舵取りに責任をもたないといけない」と感慨深げにつぶやいていた。
同年2月6日の初登庁日には職員500人が大きな拍手で出迎え、カメラのフラッシュの放列を浴びながら笑顔で府庁舎3階にある知事室へと入っていった。
話は前後するが、秘かに府知事選出馬の意思を固めた橋下と極秘裏に会談した政治家がいた。
自民党大阪府連の幹部である。その幹部は当時、
「府知事選の候補者を探していたが、なかなか見つからなかった。そのとき、ある方から紹介されたのが橋下だった。
最初に本人を見たとき、『こんな茶髪の兄ちゃんで大丈夫かいなぁ』と不安に思ったものだ。
けれど、本人の意志を確かめると意欲はあるし、勉強もしっかりしている。これなら大丈夫かな、と。そこで自民党本部の選挙対策責任者と引きあわせた」
と私の取材で語っていた。
当時の世間の様子
橋下は当時、朝日放送(大阪市福島区)の情報番組などでコメンテーターを務めており、「茶髪弁護士」などのあだ名が付くお茶の間の人気者だった。
それだけに、彼の府知事選出馬を某新聞がスクープしたとき世間は騒ぎ、対立候補は青ざめた。
ところが橋下は、マスコミからコメントを求められると「(出馬は)2万パーセントない」と言い切った。これは結果として嘘だったが、水面下ではレギュラー出演していたテレビ局と番組降板の交渉中だったようだ。
橋下の「2万パーセントない」というセリフは世間でも流行り、それ以降、橋下の言葉を「まともに受け止めるな」といった風潮が世間に流れたものである。
だが、出馬に関する嘘は仕事相手の都合もあってのことだから、私は仕方がなかったのだろうと理解していた。
ただし、「言うことがコロコロと変わる」といった世間の不安や批判の通り、その後の橋下の言動は猫の目のようにクルクルと変わることはたびたびだった。
私は当初、橋下知事の登場を歓迎した1人だった。府知事として孤軍奮闘する姿を陰ながら応援していたものである。
また今と違って、当時は橋下も私を悪く思っていなかったはずだ。互いに意見を交わすこともしばしばあり、私も彼の政治力と突破力に期待した。
だが、彼が維新の代表になってからは、私の橋下への評価は徐々に変わりはじめた。